表現とゆとりとフリージア
表現っていうのは当たり前のことだけど奥が深くて、でかい声を出せば伝わるわけでもないし、笑顔は楽しいという感情を表現するだけのためにあるわけでもない。
3m四方の小さい部屋には小さい部屋の、3000人入るホールには3000人入るホール用の音がある。
その部屋用の音にも暖かいものから凍りつく冷たさのものまで無限にある。
コミュニケーションもそう。
大企業には大企業、田舎の小学校には田舎の小学校、気の合う友達同士にも、犬猿の仲といわれるのも嫌なぐらい犬猿の仲の2人にもそれぞれの空気がある。
真顔にも笑顔にも表と裏がある。
生きてるとたまに、空気を読めと言われる。
私が出会った何人もの人たちのほとんどは、「目の前にいる相手ないしは所属するコミュニティにいる人たちが何を求めて何を考えているのか可能な限り想像して、その人たちの要求なり願望なり欲望を出来る限り捉え、それに沿った行動をとる」ことを空気を読むといっている、気がする。
結局、最後に来るのは表現。表現の連鎖。思っているだけではうまく行かない。
空気を読めないということは表現力が欠如していることにつながっている場合もあるのではないか。
そんなことを、
モーニング娘。6期メンバーオーディション特番を見返していると思う。
クビニコブ(当方)はおそらく世間一般で言うところの新人研修を僭越ながらさせていただくことがままあるが、その新人たちと、モーニング娘なりなんなりのアイドルオーディションを受ける人々はかなりの頻度でオーバーラップする。*1
返事はしない、理解しないと動けない、同期の間ではよく喋る、感情は出来る限りこらえる。
もちろんそれ以外もいる。というかむしろそういう傾向にあるのは最後まで残る人ぐらいだったりもする。
最後まで残って、出したい結果のビジョンがあり、それに向かって自分のペースで向かう。自分のペースで。
しかしレッスンなり研修、授業となると自分のペースは往々にして許されない。でかい声で返事をするなりわかっているという表現を求められる。*2*3
教える側は嫌いで怒るわけではない。レッスンしてるんだから本気なのは当たり前。受ける側ももちろん本気。違うのは、本気の表し方。表現のしかた。
モーニング娘。6期のような傾向*4をかなり雑にひとまとめにして、「ゆとり」と世の中は断じているように思う。
世代的にゆとりじゃない人も世間のものさしで測ってみれば「ゆとり傾向」にある場合は多分にある。実際、今ゆとり教育を受けずに育っている*5小・中・高校生が、全員肩を並べてゆとり世代と比べよく出来た賢い人たちに育っているかを覗いてみるとそうでもないのではないか。
ゆとり=だめ人間みたいなイメージってあると思う。
でもゆとりにしたがったのは大人の方で、いざそうしてみるとその大人の方に余裕がなかった。世の中はゆとりを受け入れることが出来なかったってことのように思う。火がついていないようにも見えるマイペース、プラス表現力の欠如を受け入れられなかったと。
ゆとりと呼ばれる人たち*6が、追いかけているのはいつも自らが求めるビジョンにすっぽり収まるベストな自分。下手すると所属するコミュニティが求めるベストとは違うかもしれない。
空気も、多分読めない。
まぁなんていうか、そんな感じだと思うよ。(笑)
別に空気なんて読めなくてもいいと思う。
ベストなビジョンが、そこにあるなら。